ソウル最後の夜〜帰国

 ソウル最後の夜は、もっと韓国の本当の姿を見ておきたい。ということで、同室の深井先輩を誘って南大門市場に繰り出すことにした。
 まずは、当時、韓国で最も興味を持っていた青磁の専門店に入る。このころ私は、焼き物趣味に入れあげていて、日本全国の産地を山とともに歩き回っていた。特に磁器が好きで、砥部はもちろん、久谷、有田、伊万里、津久見や土岐などを巡り、自分が普段使う食器類は自分の気に入ったもの!という、小さな贅沢を楽しんでいた。朝鮮半島の青磁は、気品のある「翡色」(翡翠orカワセミの羽の色)と繊細な貫入、そして完成された雲鶴象眼が魅力である。私は、ご飯用の茶碗としてしっくりとくる器を探して、「一信窯業」という店の店内をあちこち引っかき回した。ほとんど気に入らないものだったが、一つだけ豊満な手にしっくりくる椀を見つけ出した。写真の椀がそれで、釉薬ののりにはむらがあるが、外は無地で淡い翡色が温かく、雲と鶴の象眼も内側に品よく配置されている。さて、問題は値段だ。ここまでほとんど使ってないのでまるまる十万wほど残っているが、値札は確かそれを上回っていた。主人は少々日本がしゃべれるようである。神戸でしこんだ値引き交渉で、結局6万wまでまけさせて購入することにした。この作品を作った利川の「古陶窯」の作家の略歴(日本語と英語で書かれている)と主人(李一)の名刺をもらう。

何軒か店を回った後、市場の真ん中?の通りにある屋台で飲むことにする。言葉はカタコトしか通じないので、店のアジュマに品物(ほとんどが海産物)を指さして選び、目の前の鉄板の上で焼いて食べる。貝類はわかりやすいが、何やらわからないものもある。「ウナギ」と言って、出されたブツ切りは妙にこりこりしている。もしかすると日本でも滅多に食べられないヤツメウナギかも?ビールの酔いが回ってくると、このような市場の雑踏の中での夜の会食も楽しい。私たちは先輩と二人だったが、日本人と聞きつけるといろんな人がやってきて商品を持ってきたり、話しかけたりしてくる。知っている日本語を試したり、屋台のネタを説明したり、偽ブランド品をいろいろと持ってきて値引きするから買えと言ったり退屈しない。私は6年間、兵庫県にいて、どうも漠然と朝鮮人というイメージが、日帝の恨を常に持ち続ける陰湿な民族(このころにはだいぶ現実がわかってきてはいたが..)であったが、この会食でそのイメージは払拭させられてしまった。夜になっても街角には若い特攻警察が結構いるので、不安もほとんどない。むしろ日本なんかより安心して楽しく飲める雰囲気がある。帰りには、ほろ酔いでホテルに帰りながら、工事現場の隅にそそうをした。

 8月1日、ソウル最後の日、早朝に起きた私は、ホテルを出る。この季節、野外を気持ちよく散歩できるのはこの時間帯だけである。昨日は目的がなかったが、今日は昨日チェックしたタプコル公園に向かう。地図もないし、手がかりは昨日バスで紹介されてからたどったホテルまでの道のりの記憶だけ!公園の名前も覚えていない状況で無事たどり着けるか!...山歩き、街歩きには自信のある私の記憶力を試す良い機会だ。ロッテホテルから鐘路を通り、タプコル公園までは約1kmである。
 全く問題なく、昨日の道を逆行して鍾路のタプコル公園に到着。ここは、1919年3月1日に起こった抗日独立運動の発祥地。公園内には記念塔やレリーフ、独立運動家ソン・ビョンヒの銅像、そして独立宣言書が読まれた八角亭(パルガクチョン)があるらしい。しかし記憶に残るのはレリーフだけで、当時の抗日運動の熱気が伝わるものである。公園内には他に人一人もいず、静かな空間が流れてゆく。しばらく園内を歩き回って、再びホテルに戻る。後で地図を見ると、ここは最も行ってみたかった仁寺洞は、この公園が入口であった。やはり地図くらいは持って旅行したいものである。

 この後のことはほとんど覚えていない。7:30ホテル発。金浦空港に向かう。ガイドは、韓国についてしゃべる。記憶に残るのは、ソウルと日本人は正確に発音できないことと、オリンピックなどの行事があるときは車のナンバーの最後が奇数か偶数かで車両規制が行われたことなどである。
 韓国を出国し、そのまま松山に向かい空港で解散となる。この初の海外旅行は、韓国の文化の一部を垣間見る良い機会になったと思う。


  H7.8.01(Final)