与侈地区

 

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伽藍山の北面の瀬戸内海に面した海岸段丘上にある与侈と松は、起三崎再発見 3号 源は同じながら別々の村の集落として歴史を刻んできた。さらに与与侈・松・灘・サザエバヤ 侈の三崎湾側にはサザエバヤと灘がある。これら伽藍山の西部から 伊方町立三崎中学校 文責:山根 北部にかけての集落を   平成29年10月 2日 与侈は串と同様、海士の集落であり、小学校統合前は中学生は串中学校に通学していた。三崎町誌の記述によると、与侈には松の住民が1770年代から移住しはじめ、江戸時代末期の万延元年(1860年)に組頭を立て、松から独立したようである。このとき、松との部落の境をめぐって争いとなったようで、以下のような話が伝えられている。  決着のつかない境の調停を与侈が宇和島藩に訴え出た。ところが松は藩の家老に賄賂を贈って便宜を図ってもらった。ところがその収賄を殿様が知ることとなり、家老の切腹処分という藩の大事に発展しそうになった。それを憂えた殿様の「人ひとり助けるにはお前の一言によるもの也」との言に、与侈の組頭は訴えを取り下げ、境は松の言い分に境が定まったのだそうである。その見返り?に殿様はそれまでの集落名「夜誇」を「与侈」と改名(民を増やしてほしいとの願いに対する解答という話もある)したという話である。 また、その翌年には、与侈から殿に大きなアワビを献上したところ、殿様は「士」の称号を与え、それまでの素潜り漁師の呼名「海人」を「海士」と呼ぶようになったという話もある。  与侈はポスター「海は恋人」の撮影地でもあり、環境保全活動の中心地として現在も佐田岬半島の瀬戸内側の漁業の中心地として機能している。今では左写真の小学校跡もなくなり独自の地域行事は聞かないが、子ども行事として三崎小校区で唯一の「いのこ」が数年前まで行われていた。