佐田岬灯台周辺の戦争遺跡

 豊予海峡は軍事上重要な地点である。航空機のなかった明治時代に国土防衛で最も重視されたのが海上防衛である。工場や港の多い瀬戸内海の工業地域を守る国土防衛の軍事上の要所として、東の紀伊水道と西の豊後水道の守りが注目されるようになってきた。そして紀伊水道には由良要塞、豊後水道には豊予要塞の築城が計画されたのである。
 佐賀関に司令部を置く豊予要塞は大正13年から右図の場所(詳細図は右図をクリック!)に次々と築かれていった。しかし、各砲台は試射以外使われることなく日中戦争をへて戦線は拡大、やがて太平洋戦争が勃発する。太平洋戦争中は、航空機攻撃が中心となり本土の沿岸要塞による海上封鎖の必要性は失われていった。潜水艦の侵入防止と航空管制が主な任務となってくると、各要塞の火砲や人員は中国や南方の戦線に送られ要塞としての機能はかなり縮小していった。
 しかし、敗色が濃くなると本土決戦が現実味を帯びてきて、国防の要所にある要塞は最び重視されるようになって兵と火砲の増強していった。結局本土決戦は回避されたので、ほとんどの本土の要塞は交戦することなく終戦を迎えることになった。占領軍が武装解除した後これらの軍事施設跡の多くは放置されることになった。
なお、今の佐賀関中学校が豊予要塞の司令部であったが、その正面の今、国道フェリーの港として使われている古宮の港は、豊予要塞の軍港として整備された戦争遺跡でもある。他にも周辺に豊予要塞の史跡があるが、大分市はこれらの戦争遺跡の活用についてはきわめて消極的である。

 三崎地域では灯台周辺の正野地区に佐田岬第一砲台と第二砲台が築城された。佐田岬第二砲台は正野谷に専用の軍用桟橋(国有形登録文化財)を建造した後、北側斜面に昭和2年に設置された砲台である。この砲台の備砲は射程は短いが大きな破壊力を持つ30cm榴弾砲4門で、大滝の観測所からの指示で山越えで宇和海の敵艦船を砲撃するようになっていた。一度試射が行われ、衝撃波で正野小学校の窓ガラスが割れたとの記録があるが、実践では使われることなく昭和9年には撤去され中国の戦線に移設された。

 お鼻の菊池商店から西の尾根より北側の長浜地区と水尻より西は陸軍の土地となり民間人は立ち入りを禁じられていて、その堺を表す「陸」と書かれた石柱がいくつか今も残っている。今の長浜漁港に下る面には九州の司令部と連絡を取るための水底線陸揚室があったそうである。今の駐車場の周辺には多くの兵舎があって、終戦直前には千人もの兵が駐屯していたそうである。
 佐田岬第一砲台は大正14年に完成した砲台で、現在の駐車場の横の小高い丘に観測所がありその西の尾根に射程の長い15cmカノン砲4門を設置した砲台である。四ヶ所それぞれに地下弾薬庫もあって、現在は砲座と地下弾薬庫への深い縦穴(出入り口)が観察できる。この穴は深く鉄バシゴも朽ちて、落とし穴状態になっていてきわめて危険なので、安易に近寄ってはいけない。この砲は昭和19年10月に撤去され鹿児島の志布志の臨時砲台に移設されて代わりに12cm榴弾砲4門が備砲となり、そのまま終戦を迎えたのだろうと推測される。
 観測所とは砲撃の目と頭脳に当たる施設でここには測遠器などの観測機器が設置され砲撃の管理や弾道修正をする施設である。ここの観測所は戦後トーチカと呼ばれ民間人が商店として活用したのち放置されたようである。平成7年ごろ不幸があってのちは気味悪がって近づく人はほとんどいなかった。第一砲台跡は一般に立ち入る人はいないが、伍助会で調査した後、地元の中学生で第二砲台も含めた全軍事施設を見て回ったこともある。平成26年には四国地区の戦争遺跡保存シンポジウムがこの地域で行われ第一砲台の一部を案内したが、前述の通り案内なしで立ち入るのは危険である。詳しい案内図を公開することも考えているが、心ないマニアにより荒らされたり事故を誘発する可能性もあるので今は控えている。これらの戦争遺跡を真面目に研究されている方で興味のある方は伍助会に連絡してほしい。

 駐車場の手前、ピクニックハウスの後ろにあった右写真の黒い屋根の建物は、ただの倉庫にみえるが、木造の豊予要塞史跡である弾磨き鍛造所跡であった。おそらくここは、日本で唯一残された木造の弾磨き鍛造所という戦争遺跡でありネットにも多数この建物の写真がアップされている。ここでは、雇われた民間人がビールビンくらいの大きさの第一砲台の弾を磨いていたという。武器等の鍛造を行う作業小屋も隣接していたそうである。戦後は、土地の所有者の倉庫に使われていたが、その歴史的な価値は三崎町にも伊方町にも評価されず、保存への取り組みはないばかりか建物を維持していた方が無くなると観光施設を造るために焼却処分とされてしまった。

 当時は瀬戸内側の斜面に兵舎が連なりこの駐車場周辺は陸軍軍人の生活場だった。その遊歩道を西に進み、下ったところが当時の指令部(司令部は今の佐賀関中学校にあった)と関連施設の跡である。三崎町時代は指令部跡を再利用して「はまゆう」と名付けてバンガローの連なるキャンプ場の管理棟兼売店としていた。シャワーや調理のできる棟もあったが現在は撤去されて新設の小さなバイオトイレがあるだけである。この指令部跡の外には軍用に作られたと思われる波止と突堤がある。平成半ばまではここに作業小屋が連なり海産品を天日干しする風景が見られたが現在は住民の姿を見ることはほとんどない。
 指令部跡から西に登り尾根道を進むと椿山の中腹に周遊道がある。ここには当時、軌道が引かれていて、現在はサーチライトといわれる150cm探照灯がぐるぐる回っていた。北側には大きな探照灯の格納庫跡もある。当時はこの一帯は松林だったらしい。この探照灯もふくめ施設の運用や撤去についての情報は終戦直後に焼却されてまったくない。扉やレールなども鉄製品など売れるものは、地元住民が取り外して持ち去ってしまったそうである。

 椿山を下って灯台の展望台からみると灯台下の穹窖式砲台跡が生々しく見える。これは本土決戦用の砲台で御籠島の2門を合わせ計4門が海側からよく見える。穹窖(きゅうこう)とは砲台の孔の形状を表す用語でパンフレット等の観光資料には洞窟式とも表示されている。この砲台の穹窖は開口部高が1.5mで、設置された12cm口径の榴弾砲は、長さが144cmと短く、射程距離も5.7kmの非力な火砲であった。灯台百年整備事業で御籠島の砲台跡の一つにそのレプリカが設置されている。  野坂神社のご神体ゆかりの御籠島は、名前の通り島であり当時は陸続きではなかった。この砲台工事では索道(ワイヤー)を渡して島に渡っていたとのことである。この島では若い見習士官が上司とのトラブル後に転落死した話が伝わっており、後に彼の母が訪ねてきて寄進した地蔵尊が今も海を見つめている。なお、これらの砲台は要塞として作られたものではなく本土決戦に備えて終戦間際に近くの住民もかり出されて突貫で作られた砲台である。住民の犠牲の記録はないが発破事故で3名の兵士の命が失われており、灯台横の砲台の上に忠魂碑が設置されている。そうやって完成したこれらの砲台は火力は小さいながらよく目立つため米軍機の攻撃目標となり、そのとばっちりで灯台にも弾痕が残っている。

 明治以後アジア唯一の軍事大国として西欧列強の圧力を受けながら国防のための要塞を全国に作ったものの、戦争形態の変化と共にそれらがほとんど無用の長物になってしまっている。そのため本土の要塞はせいぜい試射をした程度で戦時中も膠着状態で敗戦と共に撤収した跡も無用の遺物としてさらされている。現在は多くの要塞跡は観光地ポイントの一つとして扱うことが多いが、膨大な税金をつかって築城したにもかかわらずややこしい地形に丈夫な建造物を設置しているため撤去もままならず行政泣かせの史跡ではある。歴史教育に活用できないかとも思うが、終戦時に記録も処分され現代の安全保障を考える上では役立つ教材的価値も少ない。当面はアニメファンや平和音痴の観光客、軍事マニアの好奇心を満足させる素材として扱われるのであろう。
軍隊というのは一般の人権意識とかけ離れた恐ろしく矛盾に満ちた生き方を強いられる組織であり、戦争となれば生存と正義、理性の葛藤の中で瞬時に大量殺人の決断を下す立場になる。戦争史跡の外見をたどるものの戦争被害に固執して戦争の本質を掘り下げない傾向の今の学校の平和教育にはあまり期待できないが、私としては兵士の血の汗と涙をこの地の史跡から感じ取ってほしいと願ってはいるので、本気で戦争について学びたいと思う場合は連絡してほしい。

 さて、伍助会では全国の要塞施設の活用のようすも見てまわった。が、どこも史跡を歴史や文化、教育や観光にどう位置づけるか悩まれている。その中で身近なところでは。アニメとのコラボと徹底した観光地化で賑わう由良要塞、最後は要塞破壊の練習台ともなって味方の砲撃にさらされた悲劇の小島砲台(今治:ここには佐田岬第二砲台と同等の30cm榴弾砲のレプリカもある)、そして戦艦の主砲を移設して豊予要塞の中でも最強にして日本最大の爆発事故を起こした丹賀砲台は、歴史的な意味を考えるという意味で興味を持った方はぜひ足を伸ばして見てみてほしい。


 
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