橙(だいだい)

 日本一細長い佐田三崎半島が悠々と横たわっている。半島の先端には、紺青のくっきり映える白亜の燈台、山の頂上まで紺きつがいっぱいの町が三崎町である。八幡浜市からの国道一九七号線は道路事情が悪かった為に、「二度とイクナ国道」とつい最近まで言われつづけていたが、最近ようやく完通された。

 イクナ国道の先端三崎町は、陸の孤島とも言われたが、山海の自然の恵をいっぱい受けて、温かい人情とともに香り高い文化ロマンの町とも言われている。また、橙の町として全国に注目されたのは、そう遠くない。視察者も後をたたないぐらい多忙だったとか。橙をリヤカ−一台出せば、1ヶ月分の給料と匹敵した時代もあり、当時の農家は、優雅な生活を送っていたと想像される。この橙を三崎町に普及させたのが、郵便局長でもあった二名津区内出身の宇都宮誠集翁である。現在も、普及功績に対し、毎年盛大に慰霊祭が催されている。宇都宮誠集翁は、明治二十三年上阪の祭、茶店で少しすっぱいミズミズしてうまい果物を食べたのがきっかけで、100本の苗木を取り寄せ、乗り気でない農家を説得してまわったのである。100年余りもの前のことである。当時の苗木一本は一円五十銭と高く、米価一斗五弁に相当したのである。

 農家が橙の栽培に手がけるようになるまでに、相当な年月を要したようである。先租から受けついだ芋・麦等の栽培を捨て、一八〇度回転して橙つくりに専念する勇気は出にくかったのが分かるような気もする。人一倍、愛郷心に富む誠集翁は、これだと決めて、日夜、橙導入について説得、奔走した結果、橙の成長とあわせるかのように、二〇人、三〇人と広まっていったのである。

 私の小学生の頃の主食は芋・麦であった。当時の麦・芋畑の耕作面積は半々ぐらいであったが、現在は紺きつ畑一色である。その橙も、つぎ木等により、甘紺・サンフル−ツに品種改良され、見ることも食べることも出来なくなったが、元木は橙なのである。
今後の経営も、農産物の自由化、紺きつ市場の不安定などから検討材料も多いと聞いている。

 そんなことを含めて、農協・漁協・後継者により、農林水産加工推進協議会が結成され、町活性化の一環として、このたび「アワビだ、サザエだ、サンフル−ツだ」をキャッチフレ−ズに、「味めぐり佐田岬 友の会」がスタ−トした。


  出典:二名津中学校「郷土の昔話」・・・平成4年度 堀元康弘(二名津郵便局長)伝,編集MK(5204)