野坂神社

 野坂神社は、三崎町佐田岬漁港の西、正野地区にある神社です。この神社の由来は、様々伝えられていますが、それらの話をまとめてみると、次のようになります。
 昔、半島の先端の海の底になにやら光る物があることに地元の人たちが気づきました。そしてそのころ、このあたりで遭難事故がよくあることに、この光る物が関係があるのではないかとうわさしていました。ある海士の兄弟が潜ってみると、大きなタコが金色に光る仏像(阿弥陀如来像)を抱えていました。この兄弟は協力してこの大ダコと格闘し、この仏像を抱え上げて、近くの渡島(おしま)にまつったそうです。それでも、海での事故が起るので、人々はどうにかしなければならないと思案していました。
ちょうどその時、ある場所に一晩の内に三本の竹がすっくと伸びたのです。これこそ神のお告げであると、その場所に仏像を移し、野坂大権現としてまつったというのです。
 この話が広まって、以来、野坂神社は「お鼻の権現さん」という愛称で厚く信仰され、この付近の人たちの他、遠くは大洲や中予、広島県の方からも海の神、五穀豊穣の神、そして牛馬の守護神として、参拝に来たといいます。特に夏祭りには数え切れないほどの船が出入りし、にぎやかであったそうです。宇和島藩主である伊達氏も、権現堂を建てたり、写真の「野坂」の二字の社額など寄進しています。しかし、太平洋戦争を境にこの夏の風物詩も衰えていきました。現在になってこの夏祭りは、「豊漁祭」という名で、新しい形の祭りとして復活し、受け継がれています。

考古資料

 三崎町では、各地で古墳の跡やさまざまな埋蔵物が見つかっています。その主な物を2つ紹介します。
 昭和53年には、中村の下水工事現場で、子持勾玉(こもちまがたま)が発見されました。これは古墳時代中期(5世紀頃)のもので、海上交通の安全を神に祈るための道具であったと考えられています。緑色の滑石(かっせき)という柔らかい岩石でできており、発見現場の近くにはいくつかの古墳の跡も見られるので、その辺りにはまとまった集落があり、かなり有力な支配者がいたと考えられます。 県内でも同様なものが数個見つかっていますが、これほど完全な形で見つかったものは珍しく、昭和54年に町の重要文化財に指定されました。
 昭和54年には串のみのこしで、約3000年前の縄文時代にチャートで作られた打製石器である鏃(やじり)が発見されました。
 その他、石器や縄文式土器や弥生式土器の破片など数多くの埋蔵物が見つかっており、三崎町の古代の様子を知るための重要な資料となっています。これらの埋蔵物は現在、写真のように町の図書室に実物が展示してあります。

 
三崎町に関する質問や意見はこちらまで →