内容編集中! しばらくお待ちください 自然遊び入門      (令和元年6月改)

 佐田岬の自然林の比率は県内でもトップクラスです。渡り鳥の通り道ということもあって、鳥が運ぶ種によって多様性豊かな植生が育まれています。近年桜や菜の花、ラベンダなど人が植えた一つの種類の花が広がる光景がもてはやされる傾向がありますが、それは美しさというより人為的な自然の中にいるという安心感からくる満足感だと思います。ある程度自然になじんだ方なら多様性豊かな佐田岬の森の息をのむ美しさに気づけると思います。三崎全域の山の春は一斉に多様な花で色づきますが、特に二名津小学校周辺の山々の光景に驚嘆している姿を何度も見ました。季節の多様な動植物とふんだんに出会えるこの自然の魅力には全国を巡ってきた私も感動の連続です。
 ところが、こんな優れた自然環境もここに住み続けている人にはあまり意識されていないようです。豊かな自然に育まれることの大切さは青色LEDの中村博士も子ども時代を振り返って評価しています。おそらく失ってみて初めて認識される地域の宝なのでしょう。そんな自然の中で遊べる子どもたちは幸運ですが、近年はそのアドバンテージが生かされていないと感じます。実は私は平成7年に自然と子どもの道徳性の育成に関する研究を行い県の教育センターで発表しました。その中で扱った自然遊びの重要性や私の体験をもとに自然遊びについて思います。
 小学校時代の私の思い出は野遊びで埋められています。コアな野遊び集団を結成してお宮やお寺、近くの川や山で日が傾くまで毎日夢中で遊んだものです。私が小学校6年の時に大坂で万博がありました。私の父母は家の全財産を費やして大坂に連れて行った苦労話を今も語ります。しかし今になって考えると万博で見た月の石も人間洗濯機などもそれなりに面白かったけれど、実は自分で探検した野遊びの日々の方が断然面白く、私の人間形成に役だったと思います。当時話題だったエキスポランドのジェットコースターも、神社の横のどろ坂の板滑りや竹藪での空中遊泳やさまざまな飛び降り遊びとくらべれば、単調で退屈な遊具ばかりでガッカリしました。今でも自然に似せた人工物だらけの遊園地の遊具で遊ぶ子どもを見ると気の毒で仕方がありません。
 遊びも管理するのが当たり前になってしまった日本では最近は自然の中で主体的に遊ぶする子どもの姿を見ることは少なくなってしまいました。数年前までアジアの貧しい国々を旅しましたが、そこではまだまだ子どもたちの遊び集団がいたるところで見られ自分の子ども時代を彷彿とさせられました。左上の写真はかなり高度な域に達しているフィリピンの男の子です。右の写真はミャンマーで泥すべりをして遊ぶ子どもたちです。陳腐に見えるかも知れませんが、人間形成での遊びの意味は主体性に基づく課題追求にあります。整備されたグランド、決められたルールで安全までも担保されて活動している小学生をみると、誰のための活動なのか疑問を感じるとともに気の毒に思えるのです。ただ私の場合、時代背景と電気も水道もない山奥に生きるけんちゃん等の野遊びの天才たちが身近にいたことが幸運でした。
 実は研究で活用した野遊び経験調査と当時のデータを最終回のおまけとして印刷してもらってますので、興味を持った方はチェックしてみてください。これまでの内容が今の子どもと自然を結びつける一助になれば幸いです。なお、これまでの原稿の完全版や子ども時代の体験はネット(http://www.goske.jp/edu/edu.htm)で公開していく予定なので関心がある方は見てみてください。1年間おつきあいありがとうございました。

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「かわいい子には旅をさせよ」「苦労は買ってでもさせよ」 子どもの免疫機能強化の中心胸腺は中学生ではもう萎縮しはじめ、腸の中に入ってきた実際の病原菌などと戦うことによって腸の中に免疫機能の学校を構築します。この時期に出来るだけ多くの免疫の敵にふれさせ強力な免疫機能をつくらせることがその後の長い人生を力強く生きる素地になるのです。 また小学生〜中学生のころが体の表面積に対する体温の代謝能力が高いのです。昔から子どもは風の子といわれすのはそのゆえんです。私の経験ではアラフィフ世代から代謝能力が急激に落ちますから室温調整がいる この人の力をつける時期、出来るだけ菌と隔離し一番代謝能力が高い時期にぬるま湯の生活をさせられた(苦労を出来るだけ排除された)子どもが大人になったときが心配です。たくさんの環境の違った子どもをあずかる学校としては一番弱い子を基準にした指導を進めるしかありませんが、家庭ではその子が到達できる最も強い免疫力、外的環境への代謝能力をこの時期につくってやることが大切だと思います。  自然についての学習では専門家や先生が子どもを引き連れて、テーマにそって自然のものを説明していくパターンが一般的です。でも最近私はそのやり方に疑問を持つ様になってきました。教育はその効果について検証ができにくいものです。でも私も小学校と中学校を行き来したり、成長した教え子を通じて学習効果をかなり検証できるようになったからです。また、他の方が指導している様子をじっくり観察し直後に児童にチェックするようにしてきたからです。  その結果、論理的な思考や体験や知識の少ない中学年以下の子どもたちはテーマを決めずその子どもの興味に応じてその子が納得するまでアプローチさせるのことが大切だと思うようになりました。それがその子の思考パターンをつくるとともに自然へのさらに深いアプローチへの入口となり思考を鍛えていくのではないでしょうか。そういえば私も一日中蟻の行列を眺めていたり、流れゆく雲に見とれたりしていました。脳科学はこの数年で大きく発展してきましたがそのなかで、睡眠は頭の休息ではなくて整理整頓作業であるとか、ボーっとしている時間が思考形成に重要な意味を持つことなどが分かってきました。自然へのアプローチは、それらが人為的でないことに意味があり、自分の考えをさまざまにめぐらして理解していく過程が人間の成長の自然な形だとするのがいいように思います。また、子ども自身もそのような事象や過程を好んで興味や関心を示しているように思えます。  ところが最近の子どもたちの世界はいろんな体験にしろ学習にしろ大人たちが意図した人為的なものばかりです。指し示めされることは学習効果も上がっていると思ってきました。しかし今の子どもで驚くのは依頼心の強さです。これは常に大人に守られ答えを導かれる環境の最大の副作用だと思えます。どうも成長のある過程で自らが自らの工夫で問題や答えを見つけ出すことを徹底して行うことが必要なのではないでしょうか。その対象としてベストマッチするのがそれまで人類が学んできた身近な自然に自由にということではないでしょうか。それができない環境の反動が、自らが主体となって活躍できる電子ゲームに夢中になる現象なのかも知れません。でもゲームの流れは所詮人為的にプログラムされているものなのであまりよい効果は期待できません。 私が生まれる前に亡くなった祖父は孫たちのためにと庭に木の実のなる木を多く植えていてくれました。大人になると日本庭園風の庭にする人が多いし果実樹は実が落ちたり虫が集まったりで嫌われるのです。子どもにとってはその庭は楽園で季節の果実と虫たちを思う存分アプローチすることができました。 私の野遊び集団はかなり洗練された男子集団でした。今考えるとかなり危険なこともしていましたが一度も擦り傷以上のケガ人を出したことはありません。さまざまな年齢の集団で子どもなりの厳しいルールがあり危険の見極めはかなりシビアだった気がします。 しかし、小学校6年生の3学期は野遊びの総決算として樹上につくった陣地に女子もふくむ多数のクラスメートを招待しました。中学生になったら勉強するを言い訳にお菓子なんか食べながらこれまで経験した探検談話を自慢?したり自らがつくった遊び道具でさんざん大騒ぎしていました。 自然遊び以外でも昔の子どもたちは学校以外でいろいろな体験をして学んでいました。私は風呂を沸かすのが好きでした。いろんなゴミを燃やして燃え方の違いを遊べる公認の火遊びだからです。 また、エアコンのない時代なので間口を明けて仕事をしている人が多く、飽きるまでその仕事を見ていた記憶もあります。印象に残っているのは宮彫刻士が木彫りの龍や欄間をつくっているところや、鍛冶屋が釜や鍬を打っている光景です。ポン菓子製造や肱川名物の四つ手網のカジカ捕りなど穴の空くほど見ていた記憶があります。たしかマネキンをつくる職人がいて粘土調達の助手をしたこともありました。凧合戦や花火大会、鐘楼流しの後の川遊びも楽しかったのですが、今考えて怖いのは病院のゴミあさりでしょうか。  私は理科の学習の最初に子どもに必ず「自分の一番好きな場所」という調査をしてきました。その結果の変化には今の子どもたちが地域の自然からから遠ざけられ如実に表れてきています。校区のお宝を知るこの調査も今ではほとんど期待できない。