うら越え道

 自動車が移動・交通の中心となる以前は各地区は赤道と呼ばれる生活道で結ばれていました。その中でも神松名村の海上交通の拠点であった名取と三崎を結ぶ「うら越え道」は大山の峠を越えて南部半島を縦断する重要な赤道だったようです。赤道のほとんどは、放置され荒れ放題となってますが、この道も平成になって歩く人はほとんどいなくなりました。
 ここでは、昔の生活道を考える資料として平成十三年度の二名津中のPTA新聞に掲載されていた生徒の現地調査と保護者の思い出の記事を紹介します。


「うら越え道」と「経塚道」調査報告     二名津中学校:SUT道研究会

 僕達の旧道調査の最後は、名取のうら越え道でした。うら越え道というのは名取から大山の肩を越えて三崎にでる道です。
 僕達は名取の集会所前から出発して三崎の街まで調査しました。集会所から小学校の横を通って、お墓までは石段が続きます。途中、名取小学校の上で大佐田へ行く道がわかれていました。お墓からは中継所への車道沿いに上っていきました。旧道はこの道路の左側を通っています。やがて右側に水路のようなコンクリートの道が見えてきました。そこも旧道です。その道は木や草がたくさん生えていたり、道のところに木が倒れていたりしていたので、今では歩く人はいないんじゃないかと思いました。その道を進んでいると、左側に石室がありました。少し行くと右側に石仏があってそこから大久へ道がつながっているようです。
 それからさらに進むと中継所にでました。車道の下のトンネルをくぐって少し進むと廻国満願供養塔という石碑がありました。ここが「うら越え」です。その石碑は、室町時代から続く法華経の写しを日本の六十六カ所の社寺にそれぞれ納めて回る六十六部廻国巡礼を達成したことを記念したものだそうです。
 次の調査は、三崎トンネルの上の経塚(標高百五十m)に登り、そこからうら越えを往復しました。イノシシの掘った跡やクモの巣、山イチゴもたくさんありました。経塚から何度かミカン畑を横切り、廃畑を通り、いくつかの倒木を越えるとそこからは山道になります。昔はよく使っていたんだろうけど、今では誰も通ってないような道です。将来道が分からなくなるかもしれないので僕達は何ヶ所かに写真のアクリルの道標を設置しながら進みました。途中、道端に番号の入った石仏がありました。この石仏は鼻四国八十八カ所参りの石仏のようです。やがて尾根(標高二百六十五m)に出ました。このあたりは大きな岩や石がたくさんありました。しばらくはそんな道が続いていました。そのうち、前回行った廻国満願供養塔が見え、うら越えに着きました。そこまで、経塚から1293m、標高は333メートルでした。僕たちはそこで弁当を食べましたが、十一月の風はとても寒かったです。
 最後に経塚から三崎までを、小林文夫さんの案内で調査しました。経塚から三崎に少し下ると、モチの木下に小川が合流しているところに出ます。そこには八十五番札所(石仏)もありました。どんどん進むと大きな貯水槽があり、車道に出ます。山崎城跡の尾根から再び山道を下っていきます。車道を横切り教員住宅の上を通って下ると、高神様や宇都宮誠集碑のある傳宗寺前に着きました。経塚から781mでした。そこには三崎で最大のバベ(ウバメガシ)がありました。
 昔の人たちは、僕たちが調べたこのうら越えを越える道を通って名取と三崎の行き来をしていたんだなと思いました。普段僕は山道をあまり歩かないので、釜木越え道・つん越え道・うら越え道のどれも大変疲れました。でも、昔の人はいつも使っていたんだろうからすごいなと思いました。

うら越え道の思い出  二名津中学校 保護者

 私たちが中学生だった頃は、名取の生徒は大谷越えを越えて通っていました。しかし、三崎高校に通うようになると、女子の生徒は、当時の生活道であるうら越えの道を通って三崎に行っていました。その道は、今のNTTのアンテナのある峠「うら越え」を越え、伽藍山への尾根と平行して付いた道を二名津と三崎の間の峠(経塚)間で下り、そこから二名津の道と合流して三崎へ下る道のことです。当時は、名取からバス停がある名取口までは遠いので、三崎方面に行く場合は、名取の人はもっぱらその道を使っていました。なお、男子生徒は、自転車やバイクで名取口から二名津に下り、再び経塚を越える車道を通学する生徒が多かったようです。私の同級生の河野兵市さんも当時は、川之浜から大久、名取口、経塚と三つの峠を越えて片道17kmの道のりを三年間自転車で通っていました。
 私たちは7時前に家を出て、名取小学校のイボ神様のあたりで合流して高校に向かいました。名取のお墓の上は、牧場の跡で広々としていて、そこには大きな松の木もありました。そこからしばらくいってうら越えに登る道は、ぬかみやすい道で、雨の日は大変でした。うら越えを越えてしばらく行ったところに大岩があって、そこは視界が開けて三崎の街が展望できます。私たちはそのあたりで休憩していました。そこからはなだらかな下りが三崎と二名津の間にある経塚という峠まで続きます。経塚からの下りは大きな石が敷き詰めてあったりして、滑りやすく転んで大きなあざをつくっていた子もあるようです。そして私たちは八時過ぎには高校に着いていました。
 この道の途中ではには、大きなミミズが出たり、猟期には猟犬が飛び出してくることもありましたが、動物に出会うことはほとんどなかったです。当時の名取の子はおとなしく、途中で人の畑のものを取ったりしたとかいう話はほとんど聞きません。私たちは途中のおやつとしてミカンなどの果物などをよく持っていったものです。季節によっては、野いちごや木いちごを食べることもありました。聞くところによると、途中で山芋(自然薯)掘りをしている女子生徒もいたそうです。私たちは帰る途中でドングリ(クヌギ)を拾って帰ったりしたことはあります。
 私たち三人の仲間は半どんの日でも、弁当を持ってきていました。途中の見晴らしの良いところで弁当を広げていろいろと友達と語り合うのが楽しみの一つだったからです。他にこの道での思い出と言えば、高校入試の時のことです。この日は三崎高校の先輩が私たち受験生を連れて行ってくれました。その日は寒い日で、水道管が破損して水がかかっていたのか、途中にある一本の木が樹氷化していてきれいだったのを覚えています。
 天候が特に悪いときや体調が悪いときは、バスやその当時から営業しだした9人乗りのタクシーで帰る生徒もいました。やがてメロディーラインも完成して交通の便はどんどん良くなってきました。しかし、あれほど名取や二名津の人達でにぎわった経塚にも今は人影はほとんどありません。ましてやうら越え道を通る人は全くいなくなってしまいました。高度成長と共に育ってきた私たちの世代は、多くのものを得てきましたが、同時に多くのものを失ってきたことにも気づき始めています。私たちはこの経験から「本当の豊かさとは何か」を改めて考え、今の子どもたちがはばたいていく時代をよりよいものにしていきたいものです。

うら越え道に関するのエピソード  二名津中学校 保護者

 私が高校生の時は、しばらくこのうら越えを歩いていましたが、途中からバイクで通うようになりそれからは通ることがなくなりました。私がその頃、聞いたことのあるこの道のエピソードを二つお話しします。
 うら越えを越えたところに大岩がいくつかあります。斜面に突き出たその大岩の一つがくずれそうなので、子どもが面白がって動かしているうちに、その岩は本当にぬけてしまい、谷底まで転がり落ちて行きました。けが人は出なかったけれど、大騒ぎになりました。
 途中にある名取の墓地は学校帰りの頃は薄暗く気味悪いところです。ある人が墓参りにいっていたのですが、ふと見ると高校生の女の子が数人で帰ってきていました。その人は、「驚かせてやれ」と、道沿いのお墓の陰に隠れて高校生がくるのを待っていました。そして横を通ったとき、「しくしく」と小さな声で泣きまねをしました。もちろん高校生は怖がって、中には泣き出す子もいたとのことです。
 今となっては聞くこともほとんどありませんが、まだまだ多くの人が様々な思い出をこの道に持っているのではないでしょうか。石を落とした子や幽霊におびえた子は一生この道のことを忘れることはないでしょう。

  出典:二名津中学校 平成13年度 PTA新聞原稿