つんごえ道

 車道ができる前に使われていた各地区を結ぶ昔の生活道を「赤道」といいます。そのほとんどは、現在は使われず放置され荒れ放題となってます。松と三崎を結ぶ「つんごえ道」は伽藍山を二つの峠を越えて縦断する歩きごたえのある赤道です。そして三崎の柑橘と郵政の祖である宇都宮誠集が二十五年間毎日通勤で通っていた道でもあります。
 そこで、昔の生活道を考える資料として平成十三年度の二名津中のPTA新聞に掲載されていた保護者と現地調査をした生徒の記事を紹介します。


「つん越え道」調査報告     二名津中学校総合的な学習:道調査班

 僕たち道調査班五名は、松出身の保護者からの聞き取り調査をもとに三日間六時間をかけて、つん越え道の実地調査をしました。今は歩かれていない道なので、ヤブや下草をはらいながら、距離計で道のりを測り、迷いやすいところには道標カードを設置しながら歩きました。
 三崎の伝宗寺の少し上から始まる貯水槽横の山道が三崎側からのつんごえ道の起点となります。少し上ると明神道が右に分かれます。近くにミカン畑があるためか、始めうちは少し草が生えていただけだったのですが、しばらく登ると背丈ほどの草が茂って、すごく歩きにくくなり、ヘビも二匹いました。ぐんぐん上っていくと峠に出ました。そこには伽藍山に行く道路があり、体験農場への遊歩道の登り口になっていました。そこからはほとんど平坦な道が伽藍山を横切っていきます。木が茂って暗い道ですが、放置された段々畑が道の両横にあるので、昔は明るい道だっただろうと思いました。ちょっと上りがあって見舞崎への尾根を越えたところがつんごえです。そこには広場とお堂があったとのことですが、つぶれたお堂の残骸が残るだけで、明神の土砂災害の工事用の作業道が頂上の道路と結んでありました。
 つんごえから松への下りは、ヒノキ林のすごい傾斜の暗い道で、倒木や壊れた所も多くて足下が悪くたいへんでした。つんごえからその下りの途中までは松八十八か所の巡礼道ですが、巡礼道はすぐに左に分かれます。農道まで下るとコンクリートの階段を下り、雑木林や竹藪の間を下ります。しばらく行くと道が分かれていて、石の道標(写真)があり、そこにそれには「左三崎 右山道」と刻んでありました。その下は土のえぐられた暗い道で、すごいヤブになって猪が崩して道が半分もない所も多く、右が谷なので足下に注意しながら進みます。そのうち松の天満神社の上の車道に出ました。
 この調査の結果、伝宗寺から伽藍山の肩までは千二百m、そこからつんごえまでが千百m、つんごえから松の神社までの距離が約六百mで、つんごえ道はおよそ三kmの道のりでした。この道を女生徒は一時間、男子生徒はほとんど走って三十分で学校に通っていたそうです。ある老人に聞くと先輩に命じられて三崎にアイスクリームを買いに行ってとける前に帰ってきたという眉唾の話もありました。雨の日も雪の日も台風の日でさえこの道を歩いていた当時の高校生や昔の人の体力と精神力は、現在松で生活している僕にとっても驚きです。

つんごえ道の思い出  二名津中学校 保護者

 私が子どものころの松の通学は、中学校へは海岸まわりの未舗装の車道を自転車で通学していましたが、高校生は伽藍山の肩を越えるつんごえ道を歩いて三崎高校へ通っていました。当時のつんごえ道を通う松の三崎高生は全部で二十〜三十人くらいで、私は数人の友達と一緒に通学していました。
 朝、天満神社の近くに午前七時前に集まりました。松を出発してまっすぐのぼると、水がチョロチョロと出ている竹藪があり、やがてじめじめした暗いヒノキ林の急な登りとなります。そこを登りきったところが「つんごえ」です。そこにはつんごえ様を祀ったお堂と広場があって、お祭りには相撲大会も行われていました。私たちは大きな松の木の張り出した根に腰掛けて一休みして、よくおしゃべりをしました。そこからは三崎の街が見え始める伽藍山の肩までは高低差の少ない巻き道です。やがて三崎が見える伽藍山の肩を越えると、そこからは一気に下る道で、午前八時前ころには高校に着いていたと思います。明神道が分かれる伽藍山の中腹に視界が開けて三崎の港が見える場所があって、帰りにはそこでひと休みしました。
 テストの日には、勉強しながら通っていました。男子は行きから帰るまで制服で通っていましたが、女生徒は汚れてもいいように通学は私服でした。下り道で合流する明神の女生徒と共同で、伝宗寺の近くの小屋を借りていて、そこで制服に着替えて学校へ行くのです。
 車での送り迎えなどない時代なので、当然天気の悪い日でも、風邪をひいている日でも歩いて通いました。つんごえ道は土がむき出しの道で、ガマガエルやヤマビルがいたり、雨の日はぬかるむところもありました。特にハズムシという毛虫がわいている藪をぬけるのが気持ち悪かったのが印象に残っています。
 学校の帰りには、伝宗寺の近くの駄菓子屋でお菓子やパンを買って食べながら帰ったことも今では楽しい思い出です。あまり大きな声では言えませんが、道沿いの甘かんをとって食べたこともあります。すいか等もとって食べたりする生徒もいて、たまりかねた農家の人が高校に訴え、松と明神の生徒全員が校長室に呼ばれて注意されたこともありました。
 ある大雪の日、いつものように登校したのに高校は休みになっていたことがあります。このときはとても寒かったので、その前に三崎でチャンポンを一杯食べて帰ったのを覚えています。また、昭和四十九年の台風のときには大川があふれて洪水となり、高校(今の町民体育館の場所)も床上浸水となりました。このときもその片づけと清掃につんごえを越えて高校に行きました。
 私は元気だったので、一日も高校を休んだことはありません。しかし、ただ一度の遅刻のために皆勤賞をもらうことはできませんでした。その日は、いつものように小屋で制服に着替えようとしたのですが、着替えのカッターシャツを忘れていたのです。考えたあげく、三崎の洋品店につけで買いに行くことにしました。急いで買って着替えましたが、残念ながら遅刻してしまいました。
 今では中・高校生が送り迎えしてもらう姿をよく見ますが、私も高校三年の時、友達の兄が役場に行くというので、一緒に車に乗せてもらって通学したことが一度だけありました。そのときは「なんて楽でいいのだろう」と思いました。人は楽な生活に慣れてしまうとなかなか後戻りできません。今の私には、学生時代毎日あの道を往復する気力・体力があったことが驚きです。でも、いろいろな苦労を乗り越える気力と健康な体を育ててくれたのは、毎日当たり前に歩いて通ったあのつんごえ道なのかもしれないと思っています。

  出典:二名津中学校 平成13年度 PTA新聞原稿