宇都宮誠集が育てた三崎の柑橘栽培

 秋の運動会では二名津中学校・小学校の児童・生徒が合同で「おいでよ三崎」を踊ります。その「おいでよ三崎」の歌詞の一番に「春はおいでよ 三崎の山に 黄金鈴なり夏みかん 本場物だよ日本一 三崎よいとこ味どころ」とあり、夏みかんが歌われます。
 私たち郷土クラブが郷土の歴史や文化を訪ねていくうちに、この夏みかんに由来する「宇都宮誠集」さんに出会うことになりました。「宇都宮誠集」さんは二名津中学校の校区の「松」の出身ということもありその先人について調べていったというのが研究の動機です。

 私たちはまず、松のお年寄りから話をうかがいました。
 松でみかん栽培を営んでいる、六十六歳になられる宇都宮敏子さんです。そこで、私たちは「宇都宮誠集」さんの業績を改めて知ることができました。
 敏子さんは「セイシュウ」さんと繰り返し話されました。呼び名はどちらが正しいのか、質問したところ八十七歳になられる村田米七さんが詳しい話しを知っているかもしれないと紹介され、村田さんからも話をうかがうことになりました。その結果、地域の人々は「セイシュウさん・セイシュウさん」と昔から親しまれているが、本名は「のぶちか」とよぶことがわかりました。四時間ほどお爺さん・お婆さんから話を聞き、帰る際に貴重な資料を、貸していただくことになりました。

 それは、昭和四十年三月八日の愛媛新聞の記事の切り抜きでした。その新聞記事をもとに「宇都宮誠集」さんの生涯についてまとめました。

○ 1855年 5月8日 旧神松名村、松(現在の三崎町松)に生まれました。

○ 明治時代初期、16歳か17歳の頃、大阪の漢学塾で学んでいました。

○ 明治6年、18歳で三崎に帰ってからは法律をよく勉強したといわれます。

○ 明治7年頃、宇和島の船付き場付近で栽培されていた夏柑と出会います。
 そのとき夏柑苗を二、三本自宅に持ち帰って植えたのが、三崎での夏柑栽培の始まりでした。

○ 青年時代は三崎村与小学校教員、三崎村書記として奉職されたということです。
 しかし、町誌などの資料をみても、このことははっきりわかりませんでした。

○ 明治13年6月、三崎村郵便局の局長心得になります。25歳の時です。
 この頃から、夏柑栽培の研究に没頭しはじめます。

○ 明治16年、山口県、萩(はぎ)地方から150本の夏柑の苗木を購入しました。
 それを旧神松名村、松の自分の畑に植えました。

○ 明治19年、31歳の時、特定郵便局長となります。
 郵便局長の仕事の一方、夏柑の裁倍について村民を説得してまわります。
 局長の仕事、夏柑を植えることのどちらが本当の仕事かわからないほどだったそうです。

○ 明治28年、三崎村、杉山重一さんら五人が芋畑をつぶして夏柑を植えました。
 それをきっかけとして、多くの農民が夏柑畑をつくっていくようになったのです。
 7〜8年もの実に長い間、誠集さんは根気強く農民の人々に説得していったのです。
 それまでの三崎の農民の生活はとても苦しかったといいます。
 それをなんとか解消していきたいというのが、彼の切実な願いだったと思われます。
 その思いが通じて、夏柑を作り始めてから、農民の生活は少しずつ楽になっていきました。
○ 明治38年、50歳で郵便局長を辞職されます。

○ 明治40年、5月4日、53歳で亡くなられました。

 亡くなられた後、明治43年1月15日、愛媛県知事からダイダイ栽培功労賞が贈られます。明治43年、村民も三崎傳宗寺の近くに、彰功碑を建て、「夏柑の祖」の功績を今もたたえ続けています。
 昭和39年5月、三崎町松の駄馬にある墓は、三崎町農協の費用で立派に改修されました。この時期が夏柑の生産の全盛期でした。
 現在も、毎年2月に三崎町農協が主催して、「慰霊祭」が盛大に行われています。

 誠集さんが買い求めた苗木は、当時一本が一円五十銭だったようです。どれくらいの価値であったかというと、当時、米の一升が十銭内外であったということですから、 一本の苗木が実に米価の約十五倍という価値になります。その値段の苗木を百五十本も購入したのです。
 苗木を購入し、新しく植えて、はたして成功するかどうか、もし、失敗したらそれこそ取り返しのつかないことになります。大変な試みであったはずです。
 誠集さんが夏柑を導入したのは一大事件でした。農民は物珍しさと好奇心だけで、その価値については全く知ることができませんでした。もちろん、自ら進んで試しに植えてみようという気などはぜんぜん起こらなかったのです。それは、実は、誠集さんは温州みかんを、以前に試してみて、大失敗しているのです。そのことは農民みんなが知っていたので、今度は夏柑を植えようとすることに、農民が賛成しなかったわけです。誠集さんが夏柑苗を植えたのをみて村人たちは「あんなもの植えて失敗したらどうするのか。まかり間違ったら、借金どころか、首つりものだ」といってだれも試みようとしなかったそうです。

 当時の農家の人々の生活は苦しいものでした。甘藷(かんしょ=さつまいも)や麦を作り、自給自足の生活でした。さつまいもや麦をつくり、その余剰物の現金化と家畜(牛)による現金収入でした。その他は山林からの臨時収入があったようです。なんとかしたいと思っていた、誠集さん。百五十本もの苗木を購入したことは、よほどの自信があったのでしょう。「大丈夫やれる。絶対成功する。自信がある。」この自信はどこからきたかというと、誠集さんが自宅に植えた夏柑軒が、植えて七、八年たった頃、立派に実を結んだことでした。これに自信をもって誠集さんは農家に人々を説得したのです。最初、半信半疑であった人もしだいにその成果をみて、広まっていったのです。

 では、どうして夏柑の木を選んだのでしょうか。
 「宇都宮誠集」さんは郷土の風土に適した作物を見出すのに苦心したようです。そこで、私たちは三崎町の風土について調べてみました。
 まず、地形です。
 西は豊予海峡、南は宇和海、北は瀬戸内海と三方海に囲まれて、四国より、九州を指さしたように細長く突き出た佐田岬半島の突端に位置します。平地が、少なく海岸平地、山腹にできた段兵の平地に人家があります。伽藍山の四百十四mを頂点とし、中腹以上は雑木原野で、中腹以下は集落まで段々畑でしめられています。
 次に気候です。
 三崎町の昭和三十四年から五十三年までの平均気温は16.9度、平均降水量は1581ミリメートルです。最近十年間(1979〜1989)の平均気温は十六・二度、平均降水量は1551ミリメートルです。最も寒い月の二月が平成元年度は平均九度、最も暑い月の八月が平成元年度で平均26.1度です。一年を通じて比較的温暖で、降雪はあっても積雪はほとんどみられません。さらに、年間降水量は平成元年度で、1935ミリメートルです。果実の発育に大切な六月から九月までの四ヶ月間に1284ミリメートルの降水量があるなど夏柑栽培に好適な気候です。
 土壌は大部分が結晶片岩を母岩としているが、二名津から松にかけては一部秩父古生層も存在しているようです。土壌の中には大小の角礫(かくれき)が軽くつまっており、空気の流通がよく、耕土が深いので夏柑樹の生育に好都合だそうです。
 以上のような点で、風土に適した作物として実を結ぶこととなり、今度は多くの人々に夏柑栽培が急速に広まっていきました。その様子を簡単にまとめると次のようになります。

○ 明治の末  三崎町内全農家の約半分が夏柑栽培を始めます。
○ 昭和初め  農家が地元の海岸で個々に夏柑を直接、仲買人に売る「浜売りの時代」です。
○ 昭和06年 共同体組織(出荷組合)ができました。
○ 昭和28年 三崎町で柑橘加工工場が建設されました。
○ 昭和30年 この頃、索道(さくどう)、サル機械ができ、運搬が楽になります。
○ 昭和33年 各組合が合併して、現在の三崎町農業共同組合が発足しました。
○ 昭和37年 この頃から甘夏柑への切り替えが始まります。
○ 昭和40年 夏柑生産の全盛期の頃です。
○ 昭和47年 この頃から「新甘柑(サンフルーツ)」がつくられます。
○ 昭和49年 三崎の夏柑は13,500トンをこえ、当時の販売額は十二億円に達したそうです。

 昭和三十年代、急斜面の段々畑での夏柑の取り入れ、その運搬は大変でした。オイコにかるい、山から港まで運んでいましたが、その後サル機械を利用して山から道路まで運び出し、やがて港から船で出荷していました。
 最近は段々畑をぬうようにモノレールが走り、運搬が大変楽になりました。そして、倉庫に集められ、機械で選別をし、車で出荷されます。
 取り入れは1月から5月まで続きます。その他、多くの仕事が年間を通じてあります。

 夏柑生産高の推移をみると、明治44年が806トン、それからぐんぐんとのぼり、昭和39年には10,000トンを越え、昭和48年には、15,310トンの生産高になっています。

 誠集さんから始まった夏柑は、昭和48年が全盛期でした。それからは新しい品種ができていきます。夏柑から甘夏柑、そして新甘柑・サンフルーツと呼ばれます。
 そして、今では清美タンゴール、伊予柑、ポンカン、サンフルーツなどの新しい商品に生まれ変わっています。特に清美タンゴールは作付け面積が200ヘクタールに近くなり、現在の三崎町の特産品となっています。
 これからの農業について農協の方に聞いたところ、現在は「デコポン」が新種で甘くておいしいそうです。あの松のお爺さん・お婆さんに話をうかがったときもその「デコポン」(清美タンゴールとポンカンをかけあわせたもの)の名前がでました。
 「宇都宮誠集」さんのおかげで楽な暮らしができるようになったと松の敏子さんや村田さんがしみじみと語られていたことが思い出されます。
 今、三崎町松の「宇都宮誠集」さん宅のあとには夏柑の古い木が残っています。ぜひ、記念に保護し、残していきたいと思っています。

 「春は橘(たちばな)花香り 白馬はたける瀬戸の海」は、二名津中学校の校歌です。タチバナがでてきます。三崎町の町の花もタチバナです。こういう所にも「宇都宮誠集」さんがタチバナ、柑橘(かんきつ)にかけた熱い思いが今もなお、生き続けているように感じます。
 郷土についての知識を深めようと、調べたい事について資料を集めたり、実際に手がかりになりそうな場所を訪れたりすることは、とても興味深いものでした。これからも、もっともっとふるさとについて学んでいきたいと思います。
 最後に、「うみ やま こころ きらきら 三崎」、僕たち三崎町のキャッチフレーズです。ぜひ一度僕たちの町、三崎町においでください。


  出典:二名津中学校「郷土の昔話」・・・平成3年度 郷土クラブの県発表原稿,編集:(ねず5115,5501〜5511)