「釜木越え道」調査報告     二名津中学校:道調査班

 僕達の班は、三崎町の交通の歴史について調べています。本年度の前半は旧生活道(赤道)の実地調査、後半は交通機関の歴史について研究する予定です。
 その最初の調査が「釜木越え」でした。実地調査の前に昔この道を通って学校に行っていた人に、道の様子などについて聞きました。それによると、この釜木越え道を通って二名津から釜木まで早い人は16分だったそうです。これを聞くとたいしたことはないなと思いました。しかし、地図で調べているうちに、かなり坂が急で距離が長いことが分かってきました。僕はちょっと心配になってきました。

 6月2日、僕たちはこの道の距離を測定器を使って正確に測りながら二名津側から歩きました。僕が先頭で、道に張り出した小枝や草を小さな伐採のこぎりで切り、Y班長が距離を測りました。K君とY根先生はところどころに道標をくくりつけていました。T君は写真を撮って、Y君が気づいたことを記録しました。
 この道は、草がけっこう茂っていてよくわからないところもありました。途中ヘビが2,3匹でてきて、みんなびっくりしていました。所々ジャングルのようなところもありました。林道を何度か横切り峠を越えて400mくらい下ったところで、イバラがからまって通行困難な場所になりました。調査時間のことも考えてその日はそこから来た道を引き返しました。

 6月8日に再調査することになりこんどは釜木側から調べました。県道を少し上った岡ムセというところにはイノシシの掘った跡などがあって興味深く調べていましたが、やがて前回通れなかったイバラの茂みに突入してみました。何とその茂みの中にはアシナガバチの巣があって、Y君がさされてしまいました。私たちは今回の「釜木越え」は距離も短いので、いくつかの赤道調査の手始めとして一日(2時間)で調査を終える予定でしたが、結局、予定の倍の時間がかかってしまいました。

 距離計で測定した結果は、二名津中学校からお墓の道を通り新二名津林道を少し通って林道終点(水の元の上)までが872mで、林道終点から峠が242mで、二名津の登りは合計1114mでした。
 峠から蜂の巣のあったイバラ道を通り、岡ムセから釜木の車道までが846mで、そこから土山(お墓)の前を通って釜木集会所までが546mで、釜木への下りは合計1392mでした。結局二名津中学校から釜木集会所までは合計2506mということになりま す。峠の標高は約230mでした。

 ※ 二名津の人も釜木のお祭りなどに行くなどこの道を通ったことがある人が多くいて、その人達の話によると二名津中学校に勤めていた山下先生が火事の時に15分くらいでで釜木に帰ったのが最高記録だろうと言っていました。
 次は松の「つん越え」、続いて名取の「うら越え」について調査していきます。この調査には昔通っていた人の話が不可欠なので、保護者のみなさんにもご協力お願いします。


思い出の釜木越え  二名津中学校 保護者

 私が中学生だった頃の釜木の中学生は一学年20名以上いました。そしてみんな中学校へは「釜木越え」の山道を歩いて通っていました。今では誰も通ることのないこの「釜木越え」の山道について先日いろいろと聞かれました。もう30年以上も通っていないこの道についてはずっと考えることもなかったのですが、いろいろと当時のことを思い出してみました。

 まず、釜木から二名津へ行く場合のこの道の行程を説明しておきます。今の釜木集会所の後ろの石垣道を登り子安観音から県道にでたところが釜木の墓地で土山(ドヤマ)といいます。そこからしばらくは県道を歩きますが、県道はそのままいくと平礒に着きます。谷を一つ通過するとすぐに左手に登っていく幅の広い山道が今でもあります。これが釜木越えへの登り口です。そこからまっすぐゆるい坂を登り尾根にとりつくところを「岡ムセ」といいます。そこからは左に曲がって尾根に沿った登り道になります。今では右手にミカン畑がありますが、当時は左手もイモや麦の畑でした。しばらく登ると尾根をはずれて右にまがり、山を横切るように歩くようになり、やがて峠に出ます。
 そこから二名津の街まで一気に下るわけです。この道はけっこう広くて急なところには石の階段もあり、毎日人が通るので当時は道にはほとんど草も生えていませんでした。峠から二名津側にしばらく下っていくと、今の林道の終点のすぐ下に水の元という所があって木陰があり休憩場所になっていました。そこから下ると最近林道がついた場所に出て、そこから小学校の上の山を横切るように下り、中学校の上の二名津のお墓のところへ出ます。そのまま左にまっすぐ下ると二名津中学校です。この道は、だいたい片道40分〜60分かかったと思いますが、自分の最高記録は18分でした。釜木の中学生は毎日、雨の日も雪の日も長靴とこうもり傘で元気にこの道を往復していたのです。

 ここからは、私の中学校時代のこの道についての様々な思い出です。当時の子どもの遊びは四季折々でした。ナガセ(梅雨)の頃はヤマクサ(ウラジロ)の新芽が出るので、それを飛行機にして飛ばしっこするのが楽しかったです。峠のあたりは大きな木がおおうように茂っていて、カズラを使って「ターザン遊び」もよくしました。秋には、アケビやヤマナシを取って食べていました。冬には木の枝の弾力を利用した鳥捕りのわなを作って、小鳥を捕って食べたりもしました。捕った鳥は仲間で羽毛をむしって焼いて食べるのです。ヒヨやスズメなどの小鳥が多かったと思いますが、ヤマバトを捕ったときにはさばくと血がたくさん出て気持ち悪くなって食べることができませんでした。ハチに刺されたり転んだりといった程度のことはよくありましたが、みんな大きなけがもせずに楽しく遊んでいました。そういえば、釜木への下りの麦畑を一気にかけ下るのも楽しかったです。
 峠から二名津側に少し下ったところには平らになったところがあって、相撲を取ったりもしましたが、上級生が下級生を遠慮なく投げ飛ばすようなことが多かったようです。このように先輩は時々ひどいこともするのですが、そんな豪快な先輩ほどいろんなことを学ぶことがあったと思います。
 当時は悪いこともよくやりました。ある時は、峠にカバンの中の教科書などを全部出して、こっそりミカン畑に入ってカバンいっぱいミカンを取って食べたりもしました。そんなことが代々先輩から伝わる伝統だったのです。ミカンはにおいで分かるので登校中には食べず、帰りに取って食べたときも杉の葉などを手にこすりつけてにおいを消して家に帰ったものです。また、ゴム銃でミカンを撃つのも楽しかった経験でした。一度やり出すと友達で競争になってしまい、今考えるとその農家には大変迷惑をかけたものです。
 中には途中で弁当を食べてしまい、弁当の時間には他の人の弁当にたかったりするものもいました。今も二名津のお墓にあるビャクシン(イブキ)の木はもっと茂っていて、その木陰で弁当をよく食べたものです。当時は弁当もいろいろで、餅などを持ってくる者もいましたが、餅は腰に巻いておくと体温でいつまでも柔らかく食べやすかったのを覚えています。
 小遣いをもらう人は田村のパン屋で買い食いをしたりしていました。ただ、お祭りの日は家で団子餅などのごちそうがあるので、急いで帰ったものです。

 この「釜木越え」の道は生活道であり、釜木部落でも草刈りなどの整備していたが、中学生も人出に加わっていました。と言っても周りの草も今のようにゴミになるのではなくて、牛の餌として大切な資源でした。たきぎをひろったり草を刈ったりするのも生活に密着したことであり、道の管理は今とはだいぶ違ったものであった。今でこそ釜木は人数が減ってしまいましたが、釜木小学校で行う運動会では、釜木の上と下そして平礒の3つの地区が対抗で競技して盛り上がっていました。お祭りも昔は、町内の地区すべてが違う日になっていて、このような行事があるたびに神松名の人はこの「釜木越え」などを通って交流していたのです。車道が通り誰も通らなくなったこの道のことを考えると懐かしいながらも、複雑な気持ちにもなります。


  出典:二名津中学校 平成13年度 PTA新聞原稿