三崎町の地名の由来
 
 僕は、僕たちが住んでいる三崎町の地名の由来について、町誌を参考にして調べてみました。
 ちなみに、三崎町は、東経132゜7’北緯33゜23’(町役場)の位置にあります。

正野(しょうの)
 ここは、慶応3年(1867)以降、串浦の組頭によって、伊達藩の御立山、お狩り場であったところだそうです。その後、開墾して入植して人が住むようになりました。正野という名前は、庄屋の町の意味で、庄(正)野となったと考えられているそうです。
串(くし)
 クシは「越す」という意味の古語で、小さな山などが長く連なっている地形を表す言葉だそうです。それが、「串」という地名となったとされています。
与侈(よぼこり)
 江戸時代は、「夜誇」と書かれていたそうです。しかし、幕末のころ、この「夜誇」と隣の集落の「松」とで、その境界をめぐって争いが起こりました。その結果、殿様が「夜誇」の主張を聞き入れ、「与えてやるからおごるなよ」といったということで、与侈と改められたと伝えられています。夜間あかりをつけて行う「ヨバリ」という漁の名前にも関係があるとも言われています。
三崎(みさき)
 佐田岬のミサキであるからという名前の由来もありますが、ある説によると三つの崎にかこまれたところであるということで、「三崎」と名づけたとも言われています。
高浦(たかうら)
 正確な名前の由来は伝わっていませんが、比較的海岸よりも高いところの浦という意味で名づけられたのではないかと考えられています。
佐田(さだ)・大佐田(おおさだ)
 サタが、サダと濁ったもので、サは先(さき)の語根のサであり、タは方をあらわします。カナタ、コナタと似た意味の古語だそうです。とうことで、サダはサルタと同源の言葉で、先にでる、突出するという意味だそうです。大佐田の大は、大きくなった佐田という意味だそうです。歴史的には、佐田は三崎湾の集落の中では最も早く開けたところです。
井野浦(いのうら)
 水くみ場のある浦の意味だといわれています。この集落のすぐ近くには三崎で唯一の大きな池である阿弥陀池があり、水の少ない三崎では、大変重宝したのだろうと思われます。
二名津(ふたなづ)
 江戸時代の宇和島藩領のころから二名津浦と呼ばれていました。天明2年(1782)に「二間津」という名前を改名して、「二名津」と改めたのだそうです。元々は、「フタマツ」という名で、その意味は、二つの狭間の船着き場ということです。
明神(みようじん)
 しゃくたい大明神(龍王)が祭られているところからこの名前が付いたといわれています。
名取(なとり)
 元和元年(1615)、伊達政宗の長男である伊達秀宗が、宇和群10万石の領主となりました。このとき、今の宮城県から家臣を供につれてきました。その時、馬数十頭の荷駄で、諸道具も運んできたそうです。その馬を引いてきた宮城県名取郡(今の仙台市の一部と名取市)の人たち居住させ、馬の放牧をさせた。それで名取という名前がついたのだそうです。その「ナトリ」とはアイヌ語の湿地を意味するヌタトリからきたものだと町誌には書いてあります。インターネットで調べて、宮城県名取市の資料には「埴(ハニ:瓦などの原料になる黄赤色で粘りのある土の名)取り」→「丹土(はに)取り」→「丹取(にとり)」→「名取」となったと書かれています。
松(まつ)
 実際そうなので、昔は松が多かったからだと信じている人もいるそうですが、元々は「真津(まつ)」すなわち本港の意味で名づけられたのだと考えられています。
釜木(かまぎ)
 「釜木」のカマは小湾という意味で、キは樹木だと考えられています。、また、製塩のためのかまどの意味であるという説もあります。
平礒(ひらいそ)
 ヒラ(傾斜地という意味)のある磯の意味取ろうと考えられています。
  出典:二名津中学校 地域学習作品 文責・編集:(5402)