三崎町は昭和三十年頃までは陸の孤島といわれていました。
現在のような自動車道路はなく、八幡丸、繁久丸 (しげひさ丸)という船が三崎と八幡浜を往復していて、それが唯一の交通機間でした。ですから、二名津から八幡浜へ行くのには歩いて峠を越えて(うね越え)三崎か名取の浜までゆき、船に乗ったのです。
三崎町に電気が供給されるようになっやのは、七十年前の大正十一年と記録にあります。それまで電灯はなかったのです。みなさん!電気や電灯のない生活が想像出来ますか? どのような生活が営まれていたのでしょうね。
その電気のない165年も昔の文政九年に二名津の若者中の、手によって二名神社へ鳥居が寄進されています。当時の若者の素晴らしい気迫が感じられますね。
二名津の地質を参考にすると、何百年か昔は現在の三崎道や名取道の奥深くまで海は入り江になっていたと思われます。町村合併まで神松名村役場のあつた近くの梶原富代さんの屋敷の隅の道端に(大乗妙典乏塔)があります。今から二百五十年昔、宝暦六年二名津の沖で台風のため二十二名の方が溺死された、その供養のために建てられたものですが、塔の位置から考えると、その頃はあの辺りは海辺ではなかったろうかと推測されます。その塔のかたわらに大きな松の木がありました。
二名神社の前の川にかかっていた天神橋は明治二十九年に部落の寄付金によって架設され、昭和三十年頃まで村人に親しまれていた橋ですが、川の上に自動車道路が作られた時に取りはずされました。天神橋の両方にあつた四本の石橋は鳥居の傍ら(かたわ)らの向かって左側に保存されています。
石柱のことを言えば、二名津公民館と堀本製材の間に高さ百七十七センチメートルほどで、四十センチ角ぐらいの自然石が立っています。あれは昔、電灯のない頃、あの石の上が灯篭(とうろう)の様になっていて、その中に灯をともして灯台の役目をさせた石柱だそうです。
二名津のことばかりになりましたが、明神、松、平磯、釜木、名取にもそれぞれの、歴史があり、昔を推測できるいろいろなものが残っていると思います。
みなさん!あの段々畑を支えている見事な石垣に心をとめられた事があるでしょうか。あの石垣や石組には私達の祖先、先人達の血と汗がしみこんでいるのですよ。昔はさつま芋と麦が主食でした。その芋や麦を少しでも多く収穫しようと雑木山を開墾しては石を積んで造られたのがあの段々畑なのです。私達の祖先が御苦労なさった事を偲(しの)び、現在の幸せに深い感謝を捧(ささ)げましょう。
著作・・・・・・・・・・・・・・岡部富三郎(当時の二名津老人クラブ会長)
執筆依頼・・・・・・・・・・・平成4年度
編集責任・・・・・・・・・・・平成8年入学 かっちゃん(5212)