樹の上の卒業パーティー    けんちゃん 3月

 小学校高学年にもなると、探検だけではなくて、何か大きいものを作りたいという願望が強くなってくる。大きいものといってもいろいろだが、特に基地作りは、自然遊びの中でも基本中の基本である。初歩の段階では、倉庫や小屋の中を改造して基地とする。私は、家の庭の鶏小屋を改造して友達と密談(といってもたわいもないものだが)をし、宝物(きれいにできたプラモデルや、雨の付録の怪獣人形など)の隠し場所としていた。次の段階は、資材や廃材の置き場を利用しての基地である。おもしろい資材があるとすぐに子どもたちが群がって取り合いになったものである。そして、より自然派の基地といえば、洞穴基地や藪の基地(大木がある場合は、その木のうろなども考えられる)などである。今までに作ったものはその程度だったが、私たちは、6年生の夏、さらにレベルアップした基地の制作に着手したのであった。それは、木の上に基地を造るということであった。

 けんちゃんの構想では、3〜4本の木の間に縄や蔦を通せば、宙に浮く床を作るというものであった。 図のように、手ごろな4本の木を見つけ、蔦や縄を使って骨組みを作る。その上に、わらや木の皮などをしけば、とりあえず樹上の基地になるわけだ。外からは丸見えなので、基地にこもるという感じではないが、きわめて明るく涼しい開放的な基地であった。
 このように書くと、かなり簡単に作れそうだが、けっこう難しいのである。まず、手ごろな4本(3本でも良い)の木というのがなかなか見つからない。しばり目がずり落ちないように、また、登りやすいように木に枝やこぶがあることも条件である。それに、とにかく大変なのは、蔦集めであった。でも、おもしろがって作っていくうちに、やがて一つ目の基地が完成した。
 さっそく、わらや葉っぱをしいて寝っ転がる。結構快適である。けんちゃんは、よく貸本屋でマンガを借りてきたが、この樹上の基地は涼しく快適で、漫画を読むには最適な場所であった。そうやって、いろいろな高さの基地を三つほど作って、所有者を決めた。そして、休憩したいとき登って、鳥の声を聞きながら昼寝や読書などを楽しんだのであった。

 冬になり、春が近づいてくると、卒業のことを意識し始めるようになってきた。中学校のことをいろいろと話し合ったり、小学校生活での思い出を語り合ったりする。そのうち、二人は、小学校を卒業するにあたって、何かイベントをしたいと考えた。相談の結果、せっかくだから、もっとすごいツリーハウスを造ろう。そして、友だちを呼んで、卒業パーティーを開くのはどうだろうか、ということになった。
 基地は今までのように一つの床だけではなく、4本の木に3段の基地を作り、さらに隣接したもう一つの三段基地を造ろうということになった。そうなると大変だ。それからの二人は、毎日学校が終わると、走ってけんちゃんの家の上の山に行く。母には、「中学校になったら、勉強ばっかしするけん。」と、いいわけをして、工事現場に通った。実際、そのときは、私は中学生になったら、しっかり勉強しようと思っていたのである。その熱意を信用してか、母は何も言わなかった。
 造りながら、だれを呼ぼうかと話が盛り上がる。学級のほとんどの男の子を呼ぼう。いや女の子も呼ぼう。そのころ、クラスの多くの女子とは対立関係にあった。一月の大久喜鉱山取材の文の中に書いたけんかの確執が、まだ続いていたのである。もう卒業するんだから、これを機に仲直りしようということになって、がぜん基地造りに熱がこもってきた。

 そして、3月になって基地が完成した。お菓子や木の実、山で遊べるおもちゃなんかを用意して、予定していた友だちを招待した。そして、卒業を一週間前に控えた日曜日に樹上の卒業パーティーが始まったのであった。
 パーティーで何をしたのかは、あまり覚えていないが、ゲームをしたり、おしゃべりしたり、お菓子を食べたりということだっただろう。そして、思ったより女子が喜んで、不和のムードも消し飛んでしまった。
 けんちゃんは、しゃべるのが苦手だった。特に女の子の前に出ると、ほとんどしゃべられなくなってしまうので、級友の多くに愛想の悪いヤツだと思われていたようだった。それで、この基地の作り方や、自然おもちゃの使い方などを生き生きとしゃべるけんちゃんに、みんなはびっくりした。けんちゃんも何か吹っ切れたのだろう。学校では暗くて、どちらかといえばさえない男の子だったのが、この機を境に、明るい男の子に変身してしまった。けんちゃんの良さがみんなに認められることは、私にとってもうれしかった。
 そうしてわたしたちは、思い出深い五十崎小学校を卒業する日が来た。いろいろと思い出の残る暖かい木造校舎であったが、数年後、右写真のように鉄筋校舎に建て替わってしまった。新しくできた鉄筋の白い校舎は、冷たく感じられて、もう立ち寄ることもなくなった。

 先日、久しぶりに五十崎に里帰りして話をしていると、小学校の話題が出た。朝早くから校長先生が学校下の道路を掃き清めているそうである。それはそれでいいこと?だろうが、問題は五十崎小学校名物の楠である。何かの手違いで、「えのき」という札が下がっているそうである。それを母が何度か指摘しても、いっこうに直す気配さえないのである。たしかに名物の楠はあったのだが、母の勘違いかも知れないのでさっそく小学校に行ってみた。すると確かに写真のように楠が「えのき」になっている。楠は、葉をもむと独特の樟脳臭があるし、常緑樹なのだからエノキと間違えるはずのない樹なのだが...。「今の先生にはわからんのじゃろか。五十崎小学校の名物の木なのに、嘘を教えていることになるじゃろうに。」と母は言う。五十崎小学校は、今も「くすのき」というPTA誌?も出しているし、五十崎町の町の木は楠だったことを考えるとかなりひどい間違いである。しかし、時代は変わって五十崎町も内子町となるし、生活常識のない学校の先生が多くなって常識的な木の区別もできなくなってきた。総合的な学習が定着して地域学習が増加しているにもかかわらず、地域の常識が失われていくことはなんと皮肉なものであろうか。
 ※ このことはどこからか学校の方にも伝わったようで、そのうち名札はさりげなく撤去されてしまったとのことである。

 さて、中学生になると、けんちゃんと私は、ラジオや本を通じて、別の意味でいい友だちになっていった。そして、中学校2年のとき、他の学校のわんぱく軍団も結集し、「2年3組9人衆」という最強のグループが結成された。自然遊びばかりでなく、お互いが興味をもったことをとことん追求する実力派の集団であった。今考えると、このころが、私の人生で一番楽しかった時代だと思う。そのことは、別の機会に紹介することになるかもしれない。
 ****** けんちゃんシリーズ 2008〜2009 *******    − 完 −